▼ 今出川通と志賀越道との交差点の脇に鎮座しているのが子安観世音。
初めて見たときにゃあ、こんな場所に「うわっ、でけー!」と思ったのだけれど、大文字山の行き帰りに何十回と前を歩いているので、今では北白川の街の風景の一つとして溶け込んで目に映っている。
それゆえ、怖さを微塵も感じることはない。
▼ ところがこの体長約2メートルの巨大石仏は、奇妙な伝説を持ってはるのであった。
「太閤秀吉が北白川の里を訪れた時、街道沿いのりっぱな石仏が気に入り、聚楽第の堀川まで運んで、もてなしをすることになった。秀吉は毎日のように対面してはたいそう喜んでいた。しかし、ここに移して以来、夜になると地響きのようなうめき声が聞こえるので、確かめてみると、石仏が北白川の里が恋しくて泣いてことがわかり、もとあった場所に安置したという」(京都検定テキストから抜粋)
この石仏の総重量は、鎌倉〜京都間を運ばれてきはった鎌倉地蔵の比ではない。運ぶには相当苦労しそうだ。
なので、頭部を切り取って、頭部だけを聚楽第に持って行ったそうな。
まあ、秀吉ってのは自分の甥と妻子らを三条河原で公開処刑させたり、利休に切腹を命じたりと、かの国の独裁指導者並みの一面も持ったはった人物やから、京都人も好きやなかったんやろね〜。
「太閤の石仏」のエピソードは、嫌悪感の婉曲的表現が伝説化したもんやろうなと推測しますが……さて真実はどうなんでしょう?
石仏が実際うめき声を発するとは考えづらい。もとの場所に帰ってきたということは、何らかの仏罰が秀吉はんの身に下ったんでしょうか……(゜д゜;) ギクッッ
▼ 背面。
▼ 横の地蔵群の祠側面に飾られている昭和初期(?)の古地図。保存状態がよくないのは残念。
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