四月一日。
○
これから書くことは、幕末の頃よりおよそ150年間、当家に伝わってきた口伝である。
その間、その内容を書にしたためた者がいたのか、いなかったのか……口伝書として現物がない以上、21世紀の現在、そのような書は存在していないと思ってもよかろう。
ならば、常日頃からブログネタを探しているオイラにちょうど良いテーマ。
しかもインターネットで世界中に発信し、ほぼ永久的に記録として残しておこうという算段である。
もし今から書くことが真実だったとしたら、日米間の歴史書が少しばかり変わってしまうかもしれないのだ。
もう一度念のために書いておくが、「口伝」なのである。
伝達ゲームと同じで、最初の内容が伝えられていく過程で変化してしまっている可能性が多分に高いことも考慮していただきたい。
すでにオイラの爺ちゃん、婆ちゃんは鬼籍に入ってしまっている。もし存命だったら詳細に訊いてみたいところであるが時すでに遅し。
○
オイラの親から聞いた内容を以下に簡単な箇条書きで記す。
○
幕末を生きたご先祖は武士であり蘭学者であった。
東福寺塔頭・霊雲院の襖絵を描いた文人画家でもあった。
晩年、蘭学の書物をどこかへ寄贈し、「○○文庫」と呼ばれた。←どこに寄贈した? ○○には苗字が入ります。
京で大きな屋敷に住んでいた。←場所はどこやねん?
黒船でペルリ(ペリー)提督が来航時、上洛したペルリを上記の京屋敷に宿泊させた。←マジでっか!? ググってもそんな史実は(今のところ)ない。
宿泊時、ペルリ提督から封蝋されたお礼の手紙を受け取った。
上記の手紙は爺ちゃん、婆ちゃんの代に、台風もしくは大雨の日に家が雨漏りした折、インクが滲み、紙がボロボロになってしまっていたので捨てちゃった。←歴史にまったく興味がない二人だったとオイラの親が語る。
○
話に尾ひれはひれが付いちゃってるんでしょうけど、唯一現実的で具体的なのが霊雲院の件。
そこから調査すれば事の真相に近づけるのではないかと思うのですが、ググっても襖絵のことは一切情報がないのである。